【天草四郎】島原の乱の若き16歳リーダーは豊臣秀吉の孫だった!?

江戸時代
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天草四郎(あまくさしろうさんと島原の乱はとても有名なツーセットですよね。

島原の乱とはどのような出来事だったのか?

天草四郎さんとは何者だったのか?

紹介していきましょう。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

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天草四郎、簡単プロフィール!

生没1623年?-1638年 (1603年江戸幕府が開かれる。)

1600年関ヶ原の戦いで負けた小西行長(こにしゆきながさんの家来・益田甚兵衛(ますだじんべえさんの子として、熊本県上天草市(または長崎県)で誕生。

“小西行長さんも甚兵衛さんも周りの百姓もみんなキリシタンでした。”

四郎さんは子供の頃から学問を親しみ教養があったために、キリシタンたちの間では救世主として神格化されていたのです。

 

1610年頃の江戸時代初期、禁教令(きんきょうれいが発令されキリスト教徒は迫害されてしまいます。

その時に国外に追放された外国人宣教師の予言が残されています。

「25年後、天の子が現れ、キリスト教を再興するだろう。」

そして25年後の1637年、16歳の天草四郎さんを若き総大将として、日本最後の宗教戦争である「島原の乱」が開戦されたのです。

四郎さんは、「天の子」として信じられていました。

 

 

島原の乱、開戦!

島原の乱とは、島原半島(長崎県)と天草諸島(熊本県)で、百姓たちの大名への不満がきっかけで始まった戦いです。

小西行長さんらキリシタン大名が治めていた地域のため、キリスト教徒が多く生活していました。

しかし、大名が変わりキリシタンたちへの迫害が強まり、年貢を納める量が上がったりと、百姓たちへの負担が増えていたのです。

さらには、年貢を納められない者には拷問・処刑までも行うほどでした。

 

1637年、ついに耐えきれなくなった百姓たちは、天草四郎さんをリーダーに掲げ、島原半島にある原城に立てこもり幕府軍と戦うことを決意したのです。

 

島原の乱は心理戦?

島原の乱は、幕府一の切れ者とされる松平信綱まつだいらのぶつなさんと天草四郎さんの心理戦でもありました。

 

・原城の地下に穴を掘り、そこから攻め込む作戦。
天草軍はその穴に火などを投げ込み反撃。

・忍者を潜入。忍者?
しかし、九州なまりやキリシタンの言葉が解読出来ませんでした。忍者ーー!

・外国船を用意して原城を攻撃。
この狙いは、天草軍は外国からの援軍を期待していましたが、援軍は来ないから期待するのは止めろという心理攻撃でした。

・信綱さんは百姓への年貢の取り立てを減らすという手紙を四朗さんに出しました。
それに対し、四郎さんは果物や饅頭を送り返します。
こちらには食料はまだたくさんあるから「降参はしない!」という意味でした。

・武力で鎮圧したくなかった信綱さんは、天草四郎さんの母を捕らえ降伏嘆願の手紙を書かせますが、これも失敗に終わります。

 

数日後、信綱さんは天草軍の死体の胃を調べさせると、米粒はなく草の葉や海藻しか出てこなかったため、食料は無くなってきたのだと確信。惨いですがこれも情報の一環です。

弱っていた天草軍に一斉攻撃をしかけ、討ち滅ぼすことに成功したのです。

和解を望んでいた信綱さんには苦渋の決断でした。

天草四郎さんは戦死

百姓たちも皆殺しにされてしまったのです。

キリスト教では、『来世も幸福になる』という教えがあったため、幕府軍は死者は蘇ってくるのではないかという恐怖があったのだと思われます。昔の人はそういう事を信じそうですし。

 

島原の乱より1年後、「鎖国」が始まります。長崎でしか貿易はしませんってやつですね。

キリスト教が広まることを恐れたのです。

 

 

天草四郎の奇跡!

・盲目の女の子を治した。

・海の上を歩いた。

・お祈りをすると一羽の鳩が天から舞い降り、そして卵を産み、その卵から聖書が出てきた。

・枝に止まっているスズメにお祈りをするとスズメは動かなくなり、四郎さんはその枝を折りスズメを一緒に持ち帰った。

などなど…

 

トリックがあるようなものばかりですが、350年も昔にこのようなものを見せられたら誰でも信じてしまう気がしますね。

四郎さんの奇跡の影響で、この地域ではキリシタンが増加し、島原の乱には3万7000人もの人が参加しているのです。

しかし真実は、父が四郎さんを救世主として作り上げたのではないかという説もあるのです。

 

 

天草四郎は豊臣秀吉(とよとみひでよしの孫だった?

1615年、豊臣家が滅亡した「大阪の陣」が起こりました。

この戦いで自害した豊臣秀吉さんの子・秀頼(ひでよりさんが実は生き延びていて、薩摩(鹿児島県)に逃れていたのではないかという説があります。

事実、薩摩には秀頼さんの墓が残されていますし、「大阪の陣の後にどこからか浪人たちが集まり住み着いた」、という言い伝えも残されているのです。

 

天草四郎さんが秀頼さんの子とされる理由としては、その時代に簡単に使えるものではなかった「ひょうたんの馬印(うまじるし(大将の所在を示す旗)」が秀吉さんと同じものを四郎さんも使っていたのです。

豊臣家と何らかの関係性があったのではという信憑性は高いですね。

 

さらにさらに、幕府軍が島原の乱の詳細を書き残した書物には、「天草四郎は秀頼の子だ!」という記載が残されているのです。徳川将軍家は分かっていたのかもしれませんね。

幕府軍は、豊臣家の血筋を根絶やしにするために、天草軍を皆殺しにしたのではないかとも言われているのです。

 

 

 

天草四郎は生き延びていた!?

歴史ではよくある「実は生きていた説」ですね。

立て籠っていた原城は海に面しており、お城の下から地下道が発見されています。

捕らえられていた四郎さんの母も、「四郎は南蛮かルソン(フィリピン)に逃げた…」と話しています。

当時フィリピンには、徳川家康(とくがわいえやすさんに追放されたキリシタン大名が作った「日本街」がありました。

そのキリシタン大名とは豊臣家の者でした。

豊臣家はフィリピンから巻き返しを図ろうとしていたのかもしれません。

 

 

まとめ

子供のころから教養があり、数々の伝説となる奇跡を起こした天草四郎さん、それを間近に見た百姓たちは天の子が舞い降りたと信じるようになっていきます。

そして、天草四郎さんをリーダーとして不平不満が溜まった百姓たちが「島原の乱」を起こします。

しかし、実際戦いを指揮していたのは四郎さんの父や武士たちだったとされています。

やはり四郎さんは祭り上げられただけの存在だったのかもしれませんね。

 

 

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