明智光秀さんと言えば、織田信長さんを討った戦国最大の裏切り「本能寺の変」が超有名ですよね。
なぜにここまで有名になったのか?
それは予想外の裏切りだった事。
未だに動機もはっきりしておらず、多くの黒幕説があるのです。
それが歴史ファンをワクワクさせるのですね。
今回は、「本能寺の変」の実行者、明智光秀さんについて紹介していきます。
それではまいりましょう。
※歴史上の事なので諸説あります。
この記事のあらすじ
明智光秀はとっても愛妻家!
1528年頃に生まれたとされており、若い頃の生活は不明な事が多いのです。
最初の妻とは死別したとか。
2人目の妻・煕子さんと結婚。
煕子さんは、顔に痕が残るほどの皮膚病にかかっていて、父は煕子さんに似ていた妹を代わりに嫁がせようとしました。
しかし光秀さんはこれをすぐに見破り、煕子さんを妻に向かえたのです。
そして、生涯側室を1人も持たず、煕子さんだけを愛しています。素敵なお話。
その後、明智家は自身の城を攻め落とされ、一族は離散してしまいました。
貧困生活の中、煕子さんが黒髪を売り生計を立てます。素敵なお話。良い夫婦です。
43歳頃、織田信長さんから前代未聞の「比叡山焼き討ち」の命が下ります。
女性、子供を含む何千人もの人が殺されたのです。
信長さんはこの頃から「魔王」と呼ばれ始めます。ほんと絵に描いたような魔王ですね。
45歳頃、室町幕府が滅亡し、光秀さんは信長さんの正式な家臣となります。
室町幕府頃には、光秀さんは将軍家である足利氏の家臣でもありました。
55歳頃、ついに「本能寺の変」を起こしてしまいます。
その後、「山崎の戦い」で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)さんに敗戦。死去。
本能寺の変からわずが11日後に亡くなってしまったので「三日天下」と言われちゃいました。
「本能寺の変」、5人の黒幕説!
天下人・豊臣秀吉説。
本能寺の変の時、秀吉さんは中国地方の毛利家と戦っていました。
既に勝利を手にするところまできていましたが、最後は「信長様にとどめを!」ということで中国地方まで信長さんを呼ぶことにします。
しかし、その途中の京都・本能寺で信長さんは謀反に遭われてしまったんですね。
信長さんの死を一早く知った秀吉さんは、「中国大返し」を成功させ光秀さんを討つ事に成功したのです。
大軍勢が約200kmの距離を10日で駆け抜けます。
武器・武具は船で運ばせ…。この用意周到さが怪しさを際立たせますよね。
一番乗りで舞戻り光秀さんを倒し、信長さんの家臣の中での地位を不動のものとし、そのまま天下人まで上り詰めたのです。
次の成功者が怪しいというやつですね。
鳴くまで待とう、徳川家康説。
大阪にいた家康さんもまた信長さんの死を早くに知り、落ち武者狩りから逃げるために急いで自身の愛知のお城へと戻っています。
俗にいう「神君伊賀越え」というやつです。山道をひたすら逃げます。
家康さんは以前に長男と正室を信長さんに殺されています。
恨みを抱えていたとしても不思議ではありません。
さらには、信長さんに毒殺されそうになった話もあります。
光秀さんの機転で回避されたらしいのですが…。
光秀さんと裏で繋がっていたのではないでしょうか。
江戸幕府をつくったのは家康さんと光秀さんであったという説もあるみたいなので…。
織田信長の正室・濃姫説。
15歳の時に信長さんと結婚。政略結婚であったとされています。
しかし2人の間には子供が出来ず、側室が跡継ぎを生んでしまうのです。
正室なのにほったらかしにされちゃうんです。こんな仕打ち、女性は怒っちゃいますね。
光秀さんとは従兄妹の関係であり、信長さんを討って欲しいとお願いしていたのかも?
濃姫さんは正室であったにも関わらず、信長さんの葬儀に参列していないのです。恨みがそうとうやばそうですね。
天皇などの朝廷説。
朝廷と信長さんはあまり仲が良くありませんでした。信長さんが言うことを聞かないから。
本能寺の変の数日前、朝廷の面々がいる場で歌会が開かれました。
その歌会で、光秀さんは「信長さんを討つ事を連想するような歌」を詠んだといわれています。
朝廷側も「期待してますよ。ホホホ」的な歌を詠みました。
単純に光秀の恨み説。
光秀さんの信長さんに対する恨みは数知れず。
・母親を信長さんの裏切りで殺されています。
・酒が飲めないのに刀を口元に突き付けられ無理矢理に飲まされる。
・「禿!!」と怒鳴られる。光秀の字を2つ足すと「禿」になるから。信長さんの洒落。どんな洒落?
・信長さんの城に家康さんを招いた時、光秀さんが考えた献立の魚が腐っていたと怒鳴られる。これの本当の意味は、「家康になぜ毒を盛らなかった?」という意味で怒鳴られたという説もあります。光秀さんは家康さんを助けたのか?
・まだ敵の領地であったのに、その場所に国を変えさせられた。
戦って奪い取ればいいじゃないかと言わんばかりに。もうここまできたら嫌がらせですね。
明智光秀は生きていた!?
光秀さんは「山崎の戦い」を生き延びており、徳川家康さんの側近・天海となったという超有名な話がありますよね。
その大きな理由には、家康さんのお墓がある日光東照宮には光秀さんの家紋が随所にあるのです。
さらに、日光東照宮の傍には「明智平」という天海さんが名付けた場所があります。
由来は「明智の名を残したいから」という。意味深です。
光秀さんが亡くなった後に、比叡山に光秀さんの名で石碑が送られています。これはもう生きてますね。
光秀さんが以前使えていた主君の娘が、徳川3代将軍・徳川家光さんの乳母となり、その乳母が後に天海さんに会ったときに「お久しぶりです」と挨拶を交わしています。ちょっと怖いです。
名前の共通点で言えば、
光秀の秀は2代将軍・徳川秀忠、
光秀の光は3代将軍・徳川家光、
4代将軍・徳川家綱は光秀の父・明智光綱から?めっちゃ怖いです。
明智光秀の子孫は坂本龍馬(さかもとりょうま)!?
幕末の英雄・坂本龍馬さんは、光秀さんの子孫だったという説があります。共通していることが数多く。
「山崎の戦い」の後、明智左馬助さんというお方が、四国・土佐(高知県)まで落ち延びています。
そして時は江戸…。
坂本家と明智家は同じ家紋。升があるかないかの違い。坂本家がのちに酒屋を始めたので家紋に升を加えたのではないか?
光秀さんのお城は「坂本城」です。明智の名は使えないので坂本姓に変えたのでは?
光秀さんは「亀山城」というお城も造っていて、そして龍馬さんの作った会社は「亀山社中」。
龍馬さんも「自分は明智光秀の末裔だ!」とよく語っていたらしいのです。
まとめ
調べれば調べるほど謎だらけの明智光秀さんなのです。
ここまで盛りだくさんの謎が存在すると、それに対したくさんの説が生まれるのも納得してしまいますよね。歴史の面白いところ。
真実を知りたいところですが、このまま謎は藪の中の方が想像が大きく膨らみとても良い気がします。
「明智藪」だけに!!
※「明智藪」とは光秀さん最後の地です。
|
コメント