幕末の会津戦争で、江戸幕府に忠義を尽くしてきた会津藩は新政府軍に敗れ、廃藩となる運命をたどります。
会津戦争は「会津の悲劇」ともされており、ドラマや小説でも有名ですね。
今回はそんな会津を、関ケ原の戦い以降である江戸時代に治めたお方たちにスポットを当てて紹介していきます。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
関ヶ原の戦いに敗れた上杉家!
会津戦争が起こる270年前の1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いの勝敗で会津の支配者が変わりました。
天下人・豊臣秀吉さんが亡くなると、「鳴くまで待とうホトトギス」徳川家康さんが待ってましたと鳴き始めます。
その頃、会津を治めていたのが120万石上杉家。上杉謙信さんの家系ですね。
そして、上杉家家老が「愛」の兜で有名な直江兼続さんです。
西軍・石田三成さん側に味方していた上杉家。
兼続さんが家康さんに送った手紙「直江状」で家康さんを怒らせたりしています。
関ヶ原の戦いで敗者側になってしまった上杉家は会津120万石を没収、出羽米沢(現山形県)30万石に減らされてしまいます。
蒲生家が再び会津へ。
一度、お家騒動で宇都宮へ移封されていた?
上杉家の次に会津を治めたのは、蒲生秀行さんというお方。
実はこの蒲生家、上杉家の前に一度、会津を治めていました。
秀行さんの父・蒲生氏郷さんというお方です。
氏郷さんは、織田信長さんの娘を正室に迎えたりと、信長さんや豊臣秀吉さんからの信頼も厚いお方でした。
しかし、氏郷さんが亡くなり、子・秀行さんが跡を継ぐと、家臣たちを上手くまとめられずお家騒動にまで発展、これが原因で宇都宮に移封となってしまったのです。
この騒動は、秀吉さんや石田三成さんの陰謀だったのではないかという説もありますが…。
関ヶ原では東軍側、そして再び会津へ!
蒲生秀行さんは、正室が徳川家康さんの娘、そして過去に宇都宮へ移動させられたという因縁もあり、関ケ原の戦いでは石田三成さんと敵対する東軍でした。
家康さんの娘婿ということで、再度会津に60万石で入ります。
この報酬は東軍に属した武将ではかなり多かったのです。
しかし、またしても蒲生家内でお家騒動が起きてしまいます。
そのことで心労がたたってか、秀行さんは30歳の若さで亡くなってしまったのです。
その後、長男が跡を継ぐのですが、その長男も25歳で亡くなってしまいます。何とも悲しい家系であります。
高齢の加藤嘉明が会津に!
1627年、蒲生家に変わり伊予松山(現愛媛県)より、豊臣秀吉さんの下で功名を上げた武将「賤ケ岳の七本槍」の1人に数えられている加藤嘉明さんが会津へと入りました。
領土が倍になる移動でありましたが、既に65歳という高齢で、しかも温暖な瀬戸内から寒冷な会津へ向かうことはあまりうれしいものではなかったようです。
そして、4年後には亡くなってしまいます。
嘉明さんの子・明成さんが跡を継ぎますが、何分気性が荒かったこともあり、父の代から付き従った家老と対立を起こしてしまいます。
その家老が一族を連れて城を立ち去るとき、城に向かって発砲したり橋を焼き払ったりと激しいものでした。
これに激怒した明成さんは、家老を連れ戻し処刑してしまったのです。これは「会津騒動」と呼ばれていますね。
このこともあり、明成さんは幕府に会津を返上、加藤家の取り潰しになりますが、父・嘉明さんの幕府に対する忠義を考慮し、明成さんの子に加藤家再興を認めさせました。
加藤家は幕末まで存続していく家系となりました。
会津松平家の誕生!
将軍家の血筋、保科正之!
加藤家の次に会津を治めたのは保科正之さんというお方。
実はこのお方、何を隠そう江戸幕府を創立した徳川家康さんの孫、2代将軍秀忠さんの4男、そして3代将軍家光さんと兄弟という関係なんです。
ついに徳川の血筋登場って感じですね。
正之さんは、秀忠さんの正室や側室の子という訳ではなく、雑用や身の回りの世話をする侍女の子であったため、出生は秀忠さん側近の数名しか知らないことだったといいます。
秀忠さんの妻というと、浅井三姉妹の三女・江さんで嫉妬深かった女性で有名ですね。
秀忠さんは江さんを恐れるあまり、正之さんに一度も会わずに高遠藩主(現長野県)・保科正光さんの下へ養子に出したとか。こうゆう関係は江戸時代の頃からあったんですね。
後に、3代将軍・家光さんは自身に弟がいると聞かされると、真面目で有能な弟を可愛がったといいます。
正之さんは高遠藩3万石の藩主、5年後には出羽山形藩20万石、その7年後にはついに会津藩23万石に引き立てられました。
家光さんが亡くなるとき、正之さんを呼び寄せ、「徳川家を頼む!」と言い残します。
これに感銘を受けた正之さんは「会津藩は将軍家を守護するべき存在である」という会津家家訓を定めました。
この家訓が幕末の「会津の悲劇」を生んだと言っても過言ではありません。
9代藩主・松平容保と戊辰戦争!
正之さんが亡くなると、その子たちが跡を継ぎます。
3代目の時に、幕府より徳川家の家紋「葵紋」の使用と「松平」を名乗る事を許されます。
実は初代・正之さんの頃からこれらの使用は許されていましたが、保科家の恩義のためにこれを辞退していたのです。
6代目が28歳の若さで亡くなってしまい、その子が4歳の若さで跡を継ぐことになります。
会津松平家が断絶してしまうことを恐れた家老・田中玄宰さんは、徳川御三家である水戸徳川家出身で高須藩(現岐阜県)に養子に入っていた松平義和さんの3男を貰い受けました。関係がややこしいですが、家を守るためにも養子はかかせなかったのですね。
案の定、7代目が20歳で亡くなってしまい、ここに初代・正之さんの血筋は途絶えてしまいますが会津松平家は断絶を免れました。
そして8代目も跡継ぎに恵まれず、兄の子である容保さんを養子に迎えました。
この9代目・松平容保さんが、幕末期に「京都守護職」に任命され、あの有名な新撰組を率いて京都の治安を守り、そして江戸幕府が無くなってしまっても最後まで会津家家訓を守り抜き、新政府軍と戦い続けるお方なのです。
敗戦により会津藩は無くなる?
戊辰戦争で新政府軍に敗戦してしまった会津藩は領土を没収されてしまいました。
しかし、敗戦から半年後に容保さんの子が誕生し、その子に家名存続が認められ斗南藩(現青森県)を立てました。
廃藩置県で藩は廃止!
明治4年の廃藩置県で藩は廃止され、府や県に変えらます。
会津地方も若松県となり、さらに明治9年には福島県、磐前県、若松県の合併により、長く続いてきた会津は今の福島県となったのです。
ちなみに廃藩置県当初は、3府72県もあったのですよ。
まとめ
今回は、会津藩について紹介しました。
関ヶ原の戦いで徳川寄りの武将たちが入封していき、保科正之さんからは完全なる徳川家康さんの血筋となりました。
会津藩は、徳川御三家である水戸藩よりも大きくなったとも言われているのです。
しかし、将軍家と会津藩との繋がりが強くなってしまうと、大政奉還で江戸幕府が無くなり、戊辰戦争で江戸城が無血開城された後の新政府軍の矛先は会津藩へと向けられてしまったのです。
最後まで徳川を守るために抵抗した会津戦争は、少年隊士や女性までも戦いに参加していました。
最後まで徳川将軍家のために尽くしてきた藩だったのですね。
武士の鏡です。
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