会津藩と言えば、幕末の戦争「会津戦争」がとても有名でしょう。
幼い少年隊士「白虎隊」の悲劇がドラマなどでたくさん取り上げられています。
そして、この戦争で敗戦してしまい、会津藩は無くなってしまうのです。
明治時代の「廃藩置県」で、そもそも藩は廃止なんですが…。
今回は、そんな会津について関ヶ原の戦い以前を紹介していきます。
聞いたことのある有名な武将たちが治めていた土地だったんです。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
古代から平安までの会津
もともとは「相津」だった?
第10代・崇神天皇の時代、日本最古の歴史書「古事記」には、「相津」と書かれていました。
「諸国平定の任務を終えた、8代天皇の第1皇子・大彦命と武渟川別命の親子がこの地で合流した。」
ということに由来しているようです。
The・伝説って感じですね。
のちに、古代中国の思想でもある「土地と人民は、王の支配に属する」といった考えの律令制度が導入され、今の東北地方に出羽国、陸奥国が誕生します。
その中の一つとして陸奥国会津郡といったようなかたちで設置されました。
平安時代の奥州藤原氏
11世紀半ば、陸奥国では安部氏、出羽国では清原氏が台頭していました。
その騒乱平定のために白羽の矢が向けられたのが、鎌倉幕府をつくった源頼朝さんや、平家を倒した源義経さんの祖先でもある源頼義さんでした。
源氏と安部氏と清原氏の戦いである「前九年の役」「後三年の役」が起こったのです。
この戦いに勝利した藤原清衡さんが、世界遺産でもあります平泉の「金色堂」で有名な奥州藤原氏が始まったのです。
奥州藤原氏の勢力は、現在の東北地方全てと同じであったと言われていますね。
マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する「黄金の国ジパング」のイメージは、奥州藤原氏の事だったとも言われています。
しかし、100年にも渡って繁栄を極めた奥州藤原氏でしたが、源頼朝さんに追われて逃げてきた義経さんを匿ったことで、4代目でついに奥州藤原氏は滅んでしまったのです。
戦国時代の会津
伊達政宗も会津を治めていた!
室町幕府の権力が完全に失墜し、全国各地では戦国大名が自身の領土を拡大しようと争いが絶えなくなっていました。いわゆる戦国時代ですね。
会津地方では、戦国大名・蘆名家が勢威をふるっていました。
しかし、蘆名家は後継者争いなどで次第に衰退していき、そこに付け入るように、1589年「摺上原の戦い」で伊達政宗さんに敗れ、会津は政宗さんの支配下となりました。
翌年、豊臣秀吉さんが小田原征伐で北条氏を滅ぼすと、今度は奥羽地方(現東北地方)の領土仕置を行います。
秀吉さんは、大名同士の争いを禁じる御触れを出していて、政宗さんが蘆名氏を滅ぼした事を違反とし、会津を没収してしまったのです。
秀吉さんの天下統一が成された後の会津は、蒲生氏郷さんが治めることとなります。
氏郷さんとは、あの織田信長さんが自身の次女を正室に迎えることを許され才能をとても評価されたお方、秀吉さんにも従っていました。
秀吉さんが信頼していた氏郷さんを会津に置いたのは、東北の政宗さんや関東の徳川家康さんを見張るためとも言われております。
天下統一を成しても、決して安泰ではなかったのですね。
「蒲生騒動」の謎?
その5年後の1595年、蒲生氏郷さんは亡くなってしまいます。
子・蒲生秀行くんがわずか13歳の若さで跡を継ぎ、そして徳川家康さんの3女を正妻に向かえます。
しかし、秀行くんは父に比べ器量が劣っており、家中を上手く統率出来ず「蒲生騒動」というお家騒動が起こってしまうのです。まあまだまだ若いですからね。
これに対し秀吉さんは、蒲生家を会津から宇都宮へ移動させてしまったのです。
これには裏の理由があったとされ、女性大好き秀吉さんがとても美しかった秀行さんの母を側室にしようとしますが、これを拒まれ不愉快になってしまったとか?
そんなことで?となりますが、
秀吉さんと大変仲の良かったお茶で有名な千利休さん、その娘も秀吉さんは迎え入れようとしましたが利休さんに断られます。
そのことで、秀吉さんは怒ってしまい利休さんを切腹させてしまったのです。
真かは分かりませんが、1つの説ではありますね。
他にも、秀吉さんに大変気に入られていて、関ケ原の戦いで西軍として徳川家康さんと戦った石田三成さん。
秀行くんが家康さんの娘と結婚していることに不満を持ち、三成さんが実行したという説もあります。
そもそも蒲生騒動事態を引き起こしたのが三成さんの陰謀なのではないかというのもあるくらいなんです。
蒲生家のあとに会津を治めたのは、戦国時代の武将・上杉謙信さんでも有名な上杉家です。
上杉家の家老である直江兼続さんと三成さんはとても仲がよく、秀行くんでは関東の家康さんを抑えられないため、上杉家に任せたという説もあります。
上杉家と会津。そして関ケ原へ!
上杉謙信さんの養子である上杉景勝さんが会津を治めることになります。
しかし程なくして、天下人・豊臣秀吉さんが亡くなってしまいます。
それを待ってましたと徳川家康さんが次の覇権を狙いにかかったのです。
石田三成さんも黙ってはおらず、上杉家家老の直江兼続さんと計画し、大阪と会津から関東の家康さんを挟み撃ちにしようと会津の軍備強化に出ました。(会津の強化はそういう意図ではないともされています)
家康さんは、上杉家へ「会津の軍備強化は何か良からぬことを考えているのではないか?」という手紙を出します。
これに対し兼続さんは、挑発的な内容で返したのです。
これが「直江状」ですね。関ケ原の戦いの火種ともされているやつです。
めっちゃ怒ってしまった家康さんはついに「会津征伐」に乗り出します。
家康さんは会津への道中で、今度は三成さんが挙兵を開始したことを知り、会津征伐を止め引き返します。
そしてついに東西両軍は、関ケ原で相見えることになったのです。
まとめ
今回は、関ヶ原の戦いが起こる前までの会津地方について紹介してみました。
東北地方の入り口でもある会津地方ということで、数々の有名人たちが治めていましたね。
日本最古の歴史書「古事記」や「日本書紀」の頃から、東北地方は「都からみて遠い国」ということで、「みちのおく」と呼ばれていました。
「そのまま!」
とも思いますが、どことなくお洒落な感じもしますね。
「みちのおく」から「みちのく」、「みちのくに」、「むつのくに」といった訛りの変遷もどことなく良い感じに思えるのは私だけ?
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