【油小路事件】新選組vs元新選組!旧友との戦いの結末は?

江戸時代
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幕末の京都で治安維持のために結成された、現代でも大人気の「新選組」

その中心メンバーでもある面々が、新選組結成前の江戸で顔を連ねていたのが天然理心流(てんねんりしんりゅう剣術道場試衛館(しえいかんでした。

後の局長でもある近藤勇(こんどういさみさんや、副長・土方歳三(ひじかたとしぞうさん、そして沖田総司(おきたそうじさんら組長たちもいました。

その中に、8番隊組長・藤堂平助(とうどうへいすけさんがいます。

しかし平助さんはある理由で新選組を離脱、その後、悲しくも試衛館時代からの同士であった新選組の面々と戦う事となってしまうのです。

それが今回紹介する油小路事件(あぶらのこうじじけんなんです。

 

なぜに「新選組vs元新選組」という悲しい事件が起こってしまったのか。

それではまいりましょう。

 

※歴史上のことなので諸説あります。

 

この記事のあらすじ

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新選組結成の背景を簡単に紹介!

江戸は牛込、天然理心流剣術道場・試衛館!

武蔵国多摩(現・東京都調布)で誕生した、のちの新選組局長・近藤勇さん。

15歳頃、江戸の試衛館に入門すると、天然理心流剣術3代目・近藤周助(こんどうしゅうすけさんの養子となり、その後、4代目を襲名しました。

この試衛館に、門弟や食客としてのちの新選組中核メンバーが顔を連ねていたんです。

藤堂平助さんもその1人。近藤さんよりも10歳ほど若いです。

 

江戸幕府は、14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもちさんの上洛に伴い、将軍警護のための「浪士組」を募集します。

これに参加した試衛館の面々は京へと上ることになったのです。

 

新選組誕生!

200名余りの浪士組が京へと到着すると、浪士組の本来の目的は将軍警護などではなく、天皇の兵力のためのものだと知らされます。

これを計画したのが清河八郎(きよかわはちろうさんというお方で、幕府さえも騙したという事になりましたね。

これには、幕府よりの考えを持つ「佐幕派」であった近藤さんらは異を唱え、浪士組を離脱、そして同じ考えを持った者たちと新たに壬生浪士組(みぶろうしぐみを結成しました。初期人数は24名ほどでしたね。

 

その後すぐに「第一次隊士募集」を行い、36名余りの集団となります。

同じ佐幕派で京都守護職の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもりさんから市中警備を任されるようになり、長州藩を京都から追放した事件「八月十八日の政変」の働きにより、新たな隊名「新選組」を賜ったのです。

 

 

 

第二次隊士募集で、伊東甲子太郎入隊!

新選組は、長州藩らの「天皇を長州へ連れ去る計画」を未然に防いだ「池田屋事件」、さらに、こちらも長州藩が名誉挽回で挙兵し京都で戦闘を繰り広げた「禁門の変」、これらの事件での活躍により知名度や幕府からの期待が膨れ上がっていきました。

この頃に、「第二次隊士募集」を行い、200名を超える集団へと成長していきます。

 

そして、のちに新選組vs元新選組のきっかけを作ってしまう伊東甲子太郎(いとうかしたろうさんを「新選組参謀」として迎え入れたのです。

 

伊東甲子太郎さんとは?

常陸国(ひたちのくに(現・茨城)志筑(しづく藩士・鈴木専右衛門忠明さんの長男として誕生。近藤さんとは同い歳です。

しかし、その父が家老との(いさかいで隠居、さらには借金が明らかになり家名断絶となってしまうのです。

甲子太郎さん(この時は大蔵(おおくらさん)は水戸へ剣術や学問を学びに遊学しています。この頃より天皇に忠義を尽くす勤王思想(きんのうしそうを持つようになります。

 

その後、江戸の「北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう剣術伊東道場」に入門。力量を認められ、道場主の婿養子となったのです。

 

30歳頃、同門であった藤堂平助さんに誘われ、「第二次隊士募集」の時に実弟らと共に新選組に加盟。その際、上洛の年「甲子」にちなんで「伊東甲子太郎」と名を変えています。

 

「佐幕派」の新選組とは考え方が違った?

甲子太郎さんは「参謀」という新選組No.3の待遇で迎えらます。

これは、試衛館時代からの同士でもある新選組総長・山南敬助(やまなみけいすけさんよりも上の立場でした。後に起こる、幹部としての立場を失ってしまった山南さんの「脱走事件」の原因としても挙げられていますね。

一説には参謀に就任したのは新選組入隊の2年後で、初めは組長であったともされています。

どちらにせよ、容姿端麗で学識のあった甲子太郎さんへの期待や人望は高かったのです。

 

しかし、京都守護職会津藩お預かりであった新選組は幕府よりの考えを持ち、逆に水戸での勤王思想を学んだ甲子太郎さんは倒幕の考えを持っていました。

考え方の違いにズレが生じるのも時間の問題だったのです。

そもそも甲子太郎さんの入隊は、池田屋事件などの活躍で勢いづいている新選組を内部から乗っ取るつもりだったともされています。

さらには藤堂平助さんもこれに一枚噛んでいるという説も。真実はわかりませんが。

 

 

 

決戦!油小路!

御陵衛士結成!

入隊から2年半後、伊東甲子太郎さんはついに同士14名を引き連れ新選組を離脱、御陵衛士(ごりょうえじなる組織を結成します。

新選組には局中法度で「隊を脱すれば切腹!」という規則がありましたが、これはあくまで新選組を外からサポートするためのものという理由であると近藤勇さんや土方歳三さんを説得したのです。

表向きでは納得したように見せた土方さんでしたが、信用しきれなかったために新選組三番隊組長・斎藤一(さいとうはじめさんをスパイとして御陵衛士に潜り込ませたのです。

斎藤さんは、浪士組には参加していませんが試衛館時代からの同士ですね。

 

倒幕派の2大勢力であった薩摩藩と長州藩が「薩長同盟」を交わし対幕府派の勢いが強まり出した事、そして新選組を乗っ取るといった計画も失敗に終わったための離脱であったと考えられます。

 

伊東甲子太郎暗殺!

「薩長同盟」、そして政権を幕府から朝廷に返す大政奉還(たいせいほうかんという幕末一大イベントを成し遂げた幕末のヒーロー坂本龍馬(さかもとりょうまさんが何者かに暗殺されてしまいます。

一説には、甲子太郎さんも龍馬さんと同じ考えの持ち主であったのではという見方がありますね。

それが真実であれば、「幕末のヒーロー」「新選組の裏切り者」、ここまで評価が違ってしまうものでしょうか。

 

龍馬さんの暗殺よりわずか3日後、御陵衛士へのスパイであった斎藤一さんより、

「伊東は近藤局長の暗殺を計画している!」との情報が入ります。

 

近藤さんは、相談があるという口実を作り、自身の(めかけ宅に甲子太郎さんを招いて接待します。

これには、北辰一刀流の使い手であった甲子太郎さんを警戒しての策略がありました。

そして、酒に酔っての帰路で、待ち伏せしていた新選組隊士数名に暗殺されてしまったのです。

甲子太郎さんは、「同じ志しの仲間を裏切る者たち」「卑怯な賊ども」といった意味とされる、

奸賊(かんぞくばら!」と叫んで絶命したのです。

この言葉を聞くと、甲子太郎さんは本当に新選組を裏切ったわけではないのではとさえ思えてきませんか?

 

 

 

藤堂平助死す!

甲子太郎さんを暗殺した新選組は、遺体を油小路に囮として放置し残りの御陵衛士らをまとめて粛清しようと身を潜めます。

しばらくすると、7名の御陵衛士が遺体を引き取りに表れると、新選組隊士40~50名がそれを取り囲み激戦が始まったのです。

新選組の戦術は、敵よりも多い人数で囲み襲撃するものでした。有名な「池田屋事件」はそれとは逆に、20数名の敵に対して4人での戦闘。

 

7名の御陵衛士の中には藤堂平助さんの姿もありました。

近藤さんから「平助はまだ若く、良き逸材であるから助けておきたい!」という指示があり、こちらも試衛館時代からの同士である2番隊組長・永倉新八(ながくらしんぱちさんと10番隊組長・原田左之助(はらださのすけさんは平助さんが逃げ切れるように道をあけたが、事情を知らなかった他の隊士に斬られてしまったのです。

他には、永倉さんらの意図を汲み取ったが同志を見捨てることは出来ず自ら立ち向かって斬られたとも言われています。

この戦闘で生き延びたという生存説も存在しますが信憑性は薄いようですね。

 

 

油小路事件の恨みが近藤勇の処刑に繋がる?

近藤勇、発砲事件!

油小路事件から1ヵ月後、御陵衛士の残党らは二条城からの帰りの近藤さんを待ち伏せし、馬上の近藤さんを狙撃、右肩に重傷を負わせたのです。

新政府軍vs旧幕府軍の「鳥羽・伏見の戦い」には参加出来ませんでした。

 

近藤勇、斬首!

新政府軍との戦いに敗戦していく旧幕府軍と新選組、江戸へと帰還し、隊士を募りながら流山(現・千葉)に本陣を置きます。

しかし、新政府軍に包囲された新選組は、局長・近藤さんが大久保大和(おおくぼやまとと名を変えて投降します。

身元を隠し続けた近藤さんでしたが、新政府側には元御陵衛士が加わっており、「新選組局長近藤勇」とバレてしまい、ついには斬首となってしまったのです。

 

因縁の鎖が最後までほどけなかった事件だったのですね。

 

 

 

 

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