最初に訂正しておくと、実際は天皇が1人と上皇が5人いたというのが正確なところ。
君主が存命中にその地位を後継者に譲ることを「譲位」といい、譲位した天皇は「太上天皇」の略称で「上皇」と呼ばれます。さらに仏門に入ると「法皇」となります。
そして今回の題材である、第94代・後二条天皇の頃には5人の上皇が存在するという事実となりました。
本来であれば、自身の第一皇子に即位させるのが普通でしたが、この頃は皇統が2つの家系に分裂してしまい、交互に天皇に即位させるという状態でした。
このことが5人の上皇の存在を作ってしまった理由なのでしょう。
後二条天皇の立場としては、満員電車ばりの圧迫感だったことでしょうね。気持ち的に。
それではもう少し詳しく紹介していきましょう。
※歴史上のことなので諸説あります。
この記事のあらすじ
持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)?
発端は第88代・御嵯峨(ごさが)天皇!
後嵯峨天皇は22歳で天皇に即位しますが、わずか4年で自身の2歳の子・後深草天皇に譲位しました。
皇位を譲り後嵯峨上皇となると、まだ幼い天皇に変わり「治天の君」として政務を行う「院政」を開始します。
治天の君とは、政務の実権を握った上皇や天皇で事実上の君主のことです。
第89代・後深草天皇は17歳の頃に病を患い、父・後嵯峨上皇は後深草天皇の弟である亀山天皇へと譲位を促します。
そして、第90代・亀山天皇が11歳で即位しました。
10年後、後深草上皇に皇子が既に誕生していましたが、後嵯峨上皇は亀山天皇の皇子を皇位継承第一位である「皇太子」に指名しました。
この頃より、後深草上皇の血統「持明院統」と亀山天皇の血統「大覚寺統」の対立が始まっていきます。
その後、後嵯峨上皇は亡くなりますが、遺言状には後継者を指名する文言がなく、鎌倉幕府に従うようにという遺志だけが示されていました。
幕府は父母に寵愛されていた亀山天皇を治天の君として選び、亀山天皇も自身の8歳の子・後宇多天皇へと譲位し院政を開始します。
不満を抱えていた後深草上皇に対し幕府は、後深草上皇の子を皇太子に指名し、将来両者の子孫の間で10年をめどに交互に皇位を継承していくという「両統迭立」が定めました。
後の南朝と北朝?
「持明院統」… 89代後深草ー92代伏見ー93後伏見ー95代花園
「大覚寺統」… 90代亀山ー91代後宇多ー94代後二条ー96後醍醐
第94代・後二条天皇の第一皇子が成人するまでの中継ぎとして即位した第96代・後醍醐天皇は、この環境に不満を募らせ倒幕を決行、ついには鎌倉幕府を滅亡させました。
大覚寺統は、「後二条天皇系」と「後醍醐天皇系」に分裂、後醍醐天皇は自身自らが行った政治「建武の新政」を開始します。
しかし、この建武の新政は2年半にして崩壊、共に鎌倉幕府を滅亡させた後の室町幕府初代将軍・足利尊氏さんと対立、後醍醐天皇は吉野(現・奈良)に逃れ新たな朝廷「南朝」を開きました。
これにより、持明院統の天皇は足利尊氏さんとともに「北朝」を、大覚寺統の後醍醐天皇系の天皇は「南朝」を治め、朝廷が2分する南北朝時代へと突入していくのです。
天皇と5人の上皇とは?
第94代・後二条天皇
1285年、大覚寺統の第91代・後宇多天皇の第一皇子として誕生。異母弟に後醍醐天皇がいます。
17歳で天皇に即位しますが、在位7年で病を患い24歳で亡くなってしまいます。
後二条天皇の皇子がまだ9歳であったということもあり、弟の後醍醐天皇が中継ぎの即位をしたことが幕府滅亡や南北朝分裂へと繋がりました。
第89代・後深草天皇(上皇)
1243年、第88代・後嵯峨天皇の皇子として誕生。持明院統の祖。
兄に鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王、弟に90代・亀山天皇がいます。
わずか2歳で天皇に即位、17歳で弟の亀山天皇に譲位しました。
父母が弟の方を寵愛しており、後継も弟の血統としたために、この頃から「持明院統」と「大覚寺統」の対立が始まるようになります。
1301年の後二条天皇即位時の年齢は59歳で、その3年後に62歳で亡くなります。
第90代・亀山天皇(上皇)
1249年、第88代・後嵯峨天皇の皇子、そして第89代・後深草天皇の弟として誕生。大覚寺統の祖。
11歳で天皇に即位し、後に兄を差し置いて治天の君となり院政を開始、しかしこの事が対立を生むきっかけとなっていきます。
1301年の後二条天皇即位時の年齢は53歳で、その4年後に57歳で亡くなります。
第91代・後宇多天皇(上皇)
1267年、第90代・亀山天皇の皇子として誕生。
8歳で天皇に即位。亀山天皇の兄・後深草上皇の皇子より先に天皇となりましたが、「両統迭立」により、21歳の時に後深草天皇の子・伏見天皇へと譲位し、持明院統に有利な情勢となっていきます。
第94代・後二条天皇や第96代・後醍醐天皇の父であり、遺言であった後醍醐天皇への中継ぎの即位は鎌倉幕府滅亡のきっかけにもなりました。
1301年の後二条天皇即位時の年齢は35歳で、その23年後に58歳で亡くなります。
第92代・伏見天皇(上皇)
1265年、第89代・後深草天皇の皇子として誕生。弟に鎌倉幕府8代将軍・久明親王がいます。
後深草天皇の弟で第90代・亀山天皇の皇子が2歳下であったが先に即位してしまう。
これにより、父が幕府に働きかけ22歳で天皇に即位することが出来、これ以後、持明院統と大覚寺統が交代で天皇を出すという取り決めがされました。
しかし、伏見天皇は自身の皇子を皇太子としてしまったためにさらに大覚寺統との確執が強まってしまいます。
1290年には「伏見天皇暗殺未遂事件」が起こり、首謀者は大覚寺統であるという意見も上りましたが捜査は深入りせずに事なきを得ました。
34歳の頃、自身の皇子に譲位して院政を開始しました。
1301年の後二条天皇即位時の年齢は37歳で、その16年後に53歳で亡くなります。
第93代・後伏見天皇(上皇)
1288年、第92代・伏見天皇の皇子として誕生。
父の譲位を受け11歳で天皇に即位しましたが、2代続けて持明院統からの天皇ということもあり、大覚寺統や幕府の圧力を受け、わずか3年後に大覚寺統の第91代・後宇多天皇の皇子である後二条天皇に譲位しました。
14歳という若さで上皇となったのです。
1301年の後二条天皇即位時の年齢は14歳で、その35年後に49歳で亡くなります。
まとめ
「1人の天皇に対し5人の上皇が存在していた」
だけを聞くとかなりの威圧感を感じますよね。
しかし、実際はまだ若かった天皇の代わりにその父たちが「治天の君」として実権を握っていたのです。
父としては、自身の皇子を即位させ自らが「院政」を敷きたいと考えていたのです。
そしてそこに2つの家系の対立、交代で天皇をという状況になってしまったものですから、上皇のバーゲンセール状態になってしまったのです。
源氏で有名な鎌倉幕府の将軍が、天皇家の人物となっているのにも驚きですよね。
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