【山本琢磨】坂本龍馬の親戚は切腹を逃れ、日本最初の司祭になった?

今回紹介する山本琢磨(やまもとたくまさんは、幕末のヒーロー・坂本龍馬(さかもとりょうまさんと血縁関係がある人物です。

ある日、琢磨さんは江戸である事件を起こしてしまいます。

龍馬さんに助けられ北海道へと逃げ延び、そこから第2の人生へと進むのです。

現在、東京千代田区にある「ニコライ堂」に関係のあるお方なんです。

それではまいりましょう。

※歴史上のことなので諸説あります。

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坂本龍馬との関係は?

1834年、土佐国(現・高知県)で土佐藩の郷士(ごうしの長男として誕生しました。

郷士とは、武士の身分で農業をしていた者、武士の待遇を受けていた農民です。下層の階級に属した身分ですね。龍馬さんんも同じ身分です。

琢磨さんのお祖父ちゃんの弟が坂本家の養子となり、その方の次男が龍馬さんなんです。

琢磨さんの叔父に当たるのが龍馬さんですね。龍馬さんの方が2歳ほど歳下です。

もう一人、有名な親戚がいます。

土佐藩のリーダー的存在のお方で、尊王攘夷運動を過激に行っていましたが、投獄され切腹で悲劇的な最後を遂げた武市半平太(たけちはんぺいたさんです。

半平太さんの妻は、琢磨さんの母の兄の子なので、半平太さんの妻と琢磨さんが従兄妹同士ということです。ちょっとわかり辛いですが。

土佐藩の若者たちを引っ張っていた龍馬さんと半平太さんは、遠いですが親戚同士ということですね。

時計拾得事件!

龍馬さんは、江戸の千葉道場で北辰(ほくしん一刀流を学び、剣術に優れているというのは有名ですね。その道場の千葉さな子さんは龍馬さんの許嫁というのも。

もう一人の親戚・半平太さんも小野派一刀流を学んでおり、剣術にとても優れていました。

北辰一刀流の創始者・千葉周作(ちばしゅうさくさんも小野派一刀流の流れなんです。

負けじと琢磨さんも江戸三大道場の一つ鏡心明智(きょうしんめいち流の桃井道場で師範代を務めるまでになります。

しかし、琢磨さんや龍馬さんが剣術修行に明け暮れていた1857年8月のある晩、その事件は起こってしまいます。

琢磨さんは友人と酒を飲んでの帰り道、通行人に絡み、その者が落としていった金時計を酔った勢いで売り飛ばし、その金で遊び尽くしていたのです。

程なくしてその事件が明るみになり琢磨さんらは切腹させられる事態となってしまったのです。

もちろん許されることではないのですが、同郷であり、さらには親戚同士という間柄でもある龍馬さんと半平太さんは、琢磨さんを江戸より逃がすように取り繕ったのです。

仙台、会津を流れ回り、最後に辿り着いた新潟で、後の政治家で「郵便の父」と言われた前島密(まえじまひそかさんに出会い函館行きを勧められるのです。

「日本で新しいことを学ぶなら函館ですよ!」

「密さん」という名前も何か運命的なものを感じますね。

そして、函館の地で第2の人生をスタートさせるのです。

ニコライ神父との出会い。

沢辺家へ婿養子に!

函館では、剣術の腕を生かし道場を開くと名士たちと親交を持つようになり、そんな中で知り合った函館神明宮宮司の沢辺家に婿養子に入りました。

「沢辺琢磨」と名が変わります。

その頃、2013年大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかさん演じた新島八重(にいじまやえさんの夫・新島(じょうさんが米国へ密航する際、琢磨さんはその手助けをしています。

有名人は有名人と出会うものですね。襄さんを演じられたのはオダギリジョーさんです。

ニコライ神父殺害!?

1861年、日本に来ることを望んでいたニコライ神父が函館のロシア領事館付属礼拝堂司祭として着任しました。

ニコライさんは日本の古典文学や歴史、美術などを学んでいます。

新島襄さんから日本語を学び、襄さんはニコライさんから英語と世界情勢を学んでおります。

しかし、領事館に日本武術の指南役として出入りしていた琢磨さんは、ニコライさんの事を日本侵略に来た密偵と思っていたのです。疑り深い性格なのか、そんな時代だったのか。

そしてついに琢磨さんは、腰に刀を差し、ニコライさんの本心を詰問しに向かうのです。武士ですね。

「あなたはなぜに日本にやってきたのか?返答によってはあなたを斬る!」

「あなたはキリスト教の教えをご存知か?良し悪しはそれを知ってからでも遅くはないのではないでしょうか?」

琢磨さんは確かに一理あると考え、ニコライさんの教えを学ぶことにしたのです。

こうなってはミイラ取りがミイラ状態ですよね、どっぷりとはまってしまい、友人まで誘うようにまでなるのです。

そして、日本ハリストス正教会の最初の信者となりました。

「ハリストス」はキリストの別名で、「正教会」とはキリスト教教派の1つです。

血縁関係のある龍馬さんにも同じ様なことが起こっておりますよね。

龍馬さんは、開国派であった幕府の重鎮・勝海舟(かつかいしゅうさんを斬りに向かいましたが、逆に説き伏せられそのまま弟子になったことは有名な話ですね。

こんなとこまで似ちゃうんですね。

と言うか、それほど当時の日本人が初めて外国文化に触れると圧倒され引き込まれてしまうものだったのでしょうね。

キリスト教禁制!

キリスト教は、織田信長(おだのぶながさんの時代には保護されていましたが、豊臣秀吉(とよとみひでよしさんが天下を取ると宣教師の国外退去などの処置が下されました。

そして、江戸時代に入ると、1612年に本格的に「禁教令」が発令されたのです。

キリシタン大名と呼ばれていたお方たちも完全に姿を消しました。

1637年に起こった「島原の乱」は幕府vs隠れキリシタンの戦いで有名です。

幕末に入っても日本はまだこのような状態でしたので、琢磨さんは秘密裏に洗礼を受けていました。

しかし、琢磨さんは宮司の立場でしたので異教したことを隠していましたが、ついには露見してしまい神明宮を去ることとなります。

琢磨さん一家の迫害は激しいもので、精神的に参った妻が自宅に放火してしまうという事件も起きているのです。

妻子を残し東北へ逃れた琢磨さんでしたが、ついには投獄されてしまいました。

しかし、世は明治になり禁教令も廃止されると、琢磨さんは自由の身となりキリスト教の布教に力を入れるようになるのです。

日本人最初の司祭!

キリスト教の勢いが伸び始めてくると、日本人聖職者の必要性が高まっていきました。

そんな中の明治8年、琢磨さんは日本人では初めての「司祭」となるのです。

司祭とは、キリスト教での階位の1つですね。

司祭となった琢磨さんは、各地の教会で今度は洗礼を授ける側となっていきます。

そして、東京神田にある大聖堂「ニコライ堂」建設に尽力しました。

しかし、この建設資金を困窮する者たちの生活費に回すべきだと、ニコライさんと対立した時期もありましたが。

現在残るニコライ堂は、関東大震災で倒壊してしまいましたが、後に外観が一部変更され修復されたものです。

琢磨さんは宣教に生涯を捧げ、明治45年に師・ニコライさんが亡くなると、その翌年、司祭であった長男に看取られ79歳で亡くなったのです。

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