【賤ヶ岳の七本槍】豊臣秀吉の下で活躍した武将!そして関ケ原の戦いでの分かれ目!

「四天王」とか「何番隊」とか「三銃士」とか数字物に惹かれてしまいますよね。

新撰組が人気の理由も、「何番隊」という組み体制が大いにあると思います。

全てを覚えたくなったり、全てを揃えたくなったり…。

今回は、天下人となる豊臣秀吉(とよとみひでよしさんのもとで活躍し、「賤ヶ岳(しずがたけの七本槍」と呼ばれた7人の武将たちを紹介します。

ちょっと渋い感じがしますが、行ってみましょう!

※歴史上のことなので諸説あります。

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「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるまでの経緯は?

本能寺の変!

1582年織田信長(おだのぶながさんの家臣・明智光秀(あけちみつひでさんの謀反によって「本能寺」で自害します。

そして、その悲報を聞き中国地方からいち早く戻ってきた羽柴(はしば秀吉(豊臣秀吉)さんによって、「山崎の戦い」で光秀さんは討ち取られます。

「本能寺の変」よりわずか13日後の出来事でしたね。

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清洲会議で秀吉vs勝家!

信長さんが亡くなってから約1ヵ月後尾張国(おわりのくに清洲城(きよすじょう(現・愛知)で織田家後継者や領土配分を決定する「清洲会議」が開かれました。

光秀さんを討った功績で秀吉さんの立場が大きくなり、そして織田家の重臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえさんの影響力は低下してしまったのです。

織田家の後継者問題も秀吉さんの意見が通ることになります。

この時から、織田家家臣は秀吉派と勝家派に二分され、「賤ヶ岳の戦い」へと繋がっていくのです。

織田勢力を二分した「賤ヶ岳の戦い」

本能寺の変より約1年後、二分された織田家臣たちは賤ヶ岳の戦いで交戦、勝家さんを自害に追い込み、秀吉さんの勝利に終わります。

この戦いが、秀吉さんの天下取りの足掛けとなっていったのです。大阪城の築城もこの頃から始められます。

この「賤ヶ岳の戦い」で武功を挙げた7人の武将が「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれたのですね。

そもそもどんな意味があって呼ばれていた?

百姓の出身であった秀吉さんには、代々仕えてきた家臣というのが存在していなかったのです。

今回の賤ヶ岳の戦いで活躍した者たちを「七本槍」と呼ぶことにより、「自分にもこういった優秀な家臣たちがいるんだぞ!」というアピールだったと言われています。

事実、福島正則(ふくしままさのりさんは脇坂安治(わきざかやすはると同列にされるのは迷惑だ!」と言ったり、

加藤清正(かとうきよまささんも「七本槍の話題を嫌がった」と言います。

賤ヶ岳の七本槍の面々を簡単にご紹介!

実際、「七本槍」ではなく「九本槍」だった?

武功を挙げたのは7人ではなく、豊臣政権ではかかせない石田三成(いしだみつなりさんや大谷吉継(おおたによしつぐさんを含む14人だった?

というのもありますが、今回は一般的に言われている7人を紹介していきます。

「七本槍」の呼び名は、他にも「小豆坂(あずきざか七本槍」や「蟹江(かにえ七本槍」などあり、俗に言う語呂合わせ的なところもあったのかもしれませんね。

脇坂安治

元々は、浅井三姉妹の父・浅井長政(あざいながまささんに仕えていましたが、織田信長さんに浅井氏が滅ぼされると、そのまま織田家家臣となりました。

初めは明智光秀さんに仕えていましたが、後に秀吉さんに自ら頼み込み家臣となります。

30歳頃に賤ヶ岳の戦いに参戦

柴田勝家さんの姉の子・柴田勝政(しばたかつまささんを討ち取ったという説があります。

武功により、山城国(やましろのくに(現・京都府南)に3000石を与えられました。

「関ヶ原の戦い」では、東軍・徳川家康(とくがわいえやす側に味方する予定でしたが、大阪にいるときに開戦してしまい始めは西軍に付いていました。

しかし、小早川秀秋(こばやかわひであきさんの裏切りと同時に東軍へとなります。

勝ち組となった安治さんは、伊予大洲(いよおおす藩(現・愛媛)5万3500石の初代藩主となり、脇坂家は明治維新まで続く家系となりました。

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片桐且元

片桐且元(かたぎりかつもとさんも浅井長政さんに仕えていて、のちに秀吉さんの妻となる浅井三姉妹の長女・茶々(ちゃちゃさんや、同じくのちに豊臣家の家老となる大野治長(おおのはるながさんとも若くして出会っていたと言われています。

浅井家滅亡により、変わって長浜城主(現・滋賀)となった秀吉さんに仕えるようになります。

28歳頃、賤ヶ岳の戦いに参戦し武功を挙げ、摂津国(せっつのくに(現・大阪北や兵庫南)に3000石を与えられました。

「関ヶ原の戦い」では西軍に付き負け組となってしまいますが、戦い後の豊臣家と徳川家の調整に尽くし、逆に家康さんから大和国(やまとのくに竜田藩(現・奈良)2万4000石の初代藩主となりました。

その後、豊臣家家老にまでなり、1614年の豊臣家vs徳川家の戦い「大阪の陣」の勃発を食い止めようとするのですが、内通を疑われたりと居場所を無くし大阪城を退きます。

大阪の陣では、徳川方として戦い勝利しますが、豊臣家滅亡の20日後、後を追うように病死してしまうのです。

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平野長泰

平野長泰(ひらのながやすさんは21歳で秀吉さんに仕え、24歳頃に賤ヶ岳の戦いに参戦しました。

そして、河内国(かわちのくに(現・大阪東)3000石を与えられます。

「関ヶ原の戦い」では東軍に付きますが、家康さんの子・後の徳川2代将軍徳川秀忠(とくがわひでたださんに付いて戦っていたため、本戦には間に合わず手柄を立てることが出来なかった。

大阪の陣では、恩に報いようと豊臣方に味方しようとしますが叶わず、江戸の留守を命じられました。

賤ヶ岳の七本槍で唯一大名になっていないお方ですね。

そしてそのまま、3代将軍徳川家光さんの代まで旗本として生きました。

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福島正則

福島正則さんの母は秀吉さんの叔母であったので、幼いころから秀吉さんの身の回りの世話をする小姓として仕えていました。いとこってことですね。

22歳頃、賤ヶ岳の戦いに参戦し、12歳年上の柴田勝家さんの家臣・拝郷家嘉(はいごういえよしさんを討ち取るという武功で、七本槍の中で1人だけ5000石を与えられています。いとこという関係の優遇もあったかもしれませんね。

これに対して、他の七本槍の面々からも不満の声はあったようです。

正則さんも「脇坂とは…」なんてことも言ってましたからね。

この7人の関係性はあまりよくなかったのかもしれません。

豊臣政権では、石田三成さん嫌いのTOPのお方で、となると「関ヶ原の戦い」ではもちろん東軍側となりますよね。

関ヶ原の戦いは「豊臣vs徳川」のイメージがありますが、実際は豊臣政権内での内輪揉めなんです。

賤ヶ岳の戦いが織田政権内での戦いであったように。

ということで、東軍に付いたからといって豊臣家を裏切った分けではないんですね。

14年後に起こった「大阪の陣が」こそが「豊臣vs徳川」の戦いですね。

そのため、正則さんはとっても豊臣家に近い存在だったため、大阪の陣には参加できず江戸にて留守役になっています。

実際、豊臣方に付いた正則さんの一族もいますし、正則さんの弟は大阪城に兵糧を運んだとして処罰されています。

大阪の陣で豊臣家が滅んでからの正則さんへの当たりは強くなり、正式な許可を得ずに勝手に城を修繕したなどという難癖をつけられたりし、広島藩50万石を没収され高井野(たかいの藩(現・長野)4万5000石に減らされる仕打ちをうけてしまいました。

豊臣家の武将というイメージを最後まで持たれていたのでしょう。

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加藤清正

正則さんと同じく、清正さんの母と秀吉さんの母がいとこ同士ということもあり、秀吉さんの小姓として正則さんとともに仕えます。

21歳頃の賤ヶ岳の戦いで、敵将・山路正国(やまじまさくにさんを討ち取る武功を挙げ、3000石を与えられます。

その後、秀吉さんと九州平定に従い、肥後国領主(現・熊本)となり大規模な改修工事を行い熊本城を築城します。

関ヶ原の戦いの直前には、家康さんの怒りを買い自国肥後国で謹慎させられたりもしていましたが、最終的には許され東軍として参加、大活躍を見せ52万石熊本藩初代藩主となりました。

秀吉さんの子・豊臣秀頼(とよとみひでよりさんと家康さんの会見を取り持つ役目などを担いますが、その帰国途中の船内で突如病気になり死去してしまいます。

突然死に毒殺説も囁かれているのです。

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糟屋武則

糟屋武則(かすやたけのりさんは播磨国(はりまのくに(現・兵庫)の別所(べっしょ氏の家臣でありましたが、秀吉さんの播磨攻めの後より、秀吉さんの小姓となります。

21歳頃に賤ヶ岳の戦いに参戦

秀吉さんの面前で槍で敵を一突きしたという武功を挙げ、播磨国2000石河内国(かわちのくに(現・大阪東)1000石を与えられました。

関ヶ原の戦いでは西軍として参加、負け組となり領土を没収されてしまいました。

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加藤嘉明

元々、父が家康さんの家臣でしたが、家康さんに背いてしまい流浪の身となってしまいます。

後に、長浜城主の秀吉さんの下、秀吉さんの養子で織田信長さんの4男・羽柴秀勝(はしばひでかつさんの小姓として仕えます。

加藤嘉明(かとうよしあきさんはなんと、主君である秀勝さんを差し置いて初陣を遂げようとし、秀吉さんの妻に怒られてしまっています。
しかし逆に、秀吉さんにはその意欲を褒められたといいます。

15歳の頃の初陣でも大活躍を見せたのです。

そして、20歳の頃の賤ヶ岳の戦いでも武功を挙げ、3000石を与えられます。

関ヶ原の戦いでも、東軍として西軍本隊である石田三成さんの軍と戦い活躍し、伊予松山藩20万石の大名となります。

しかし、大阪の陣では嘉明さんもやはり豊臣家に恩のある大名ということで江戸で留守役となっています。
変わりに嫡男・加藤明成(かとうあきなりさんが出陣しました。

65歳の時に、会津藩(現・福島)に43万石で移動しますが、嫡男・明成さんが「会津騒動」なんて問題を起こしてしまうのです。

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まとめ

今回は、秀吉さんが天下取りの足掛けともなった「賤ヶ岳の戦い」、そこで活躍した若き武将たちについて紹介しました。

若き日は秀吉さんのために存分に働き、関ケ原の戦いでは敵味方となり、徳川の世となったとしても豊臣家のために尽くした武将たちでしたね。

豊臣秀吉さんの家臣たちには有名な方たちが多いですが、皆豊臣家のためといった思いを強く持っているような気がします。

しかし、強い者の言うことを聞かなければならず、悔しい生き方をせざるを得ないみたいな…。

秀吉さんの人望が見えますね!

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