【島津斉興】名君・島津斉彬の父はどんな人?42年間も藩主の座に!

2018年大河ドラマ「西郷どん」では鹿賀丈史さん演じる薩摩藩10代藩主・島津斉興(しまづなりおきさん。

後の名君で知られる息子の島津斉彬(しまづなりあきらさんに全く家督を譲ろうとせず、側室の由羅(ゆらの方と共に「お由羅騒動」なるものも引き起こしてしまうお方。

薩摩藩の財政難を回復させたやり手の藩主でもあるのですが、その方法は「密貿易」などの悪いことという…。

このことが幕府にバレ、藩主の座を追われることになります。

ということで今回は、明治維新を起こした薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもりさんや大久保利通(おおくぼとしみちさんらにも慕われた名君・島津斉彬さんではなく、そんな人望厚い名君を子に持った島津斉興さんの生涯を紹介していきます。

※歴史上のことなので諸説あります。

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18歳で家督を継ぐも、実権は祖父に!?

「近思録崩れ」というお家騒動!

1791年11月、薩摩藩9代藩主・島津斉宣(しまづなりのぶさんの長男として誕生します。

父・斉宣さんは藩主であったものの、その父である8代藩主・島津重豪(しまづしげひでさんが隠居した後も実権を握っていました。

家督を継いだのが14歳であったため仕方はなかったのですが。

斉宣さん32歳頃、近思録崩(きんしろくくずれ」という騒動が起こりました。

重豪さんは、武芸や学問、医療に蘭学などに力を注ぎ、武士や百姓町人にまで教育の機会を与えるほど、さらには将軍家との政略結婚にも取り組むなどとても活発的なお方でした。自身の娘を11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなりさんの正室へとしております。

「80歳をとうに超えているのに60歳前後に見えた。とても聡明な君主だ。」という評価があります。

しかし、かなりの浪費家でもあり、藩の借金は500万両、現在にして5000億円にまで膨れ上がったのです。額の規模が…。

これに反論したのが、子である9代藩主・斉宣さんです。

斉宣さんは父を見て育っていますから性格は正反対、鶴亀問答(つるかめもんどうという文書を家臣に配り財政改革へと取り組んでいきます。「君主の贅沢を慎み、民衆の生活を考える。」といった内容のものでした。

この2人の争いが「近思録崩れ」というお家騒動にまで発展し、被害人数は77名にまで及んだのです。

騒動の責任を取る形で斉宣さんは強制的に隠居へと追い込まれ、子・斉興さんが18歳で家督を継ぎ薩摩藩10代藩主となったのです。

しかし、斉興さんの祖父である重豪さんがまだまだ藩の実権を握っておりました。

浪費家と倹約家の争いは、天下人・豊臣秀吉(とよとみひでよしさんと茶人・千利休(せんのりきゅうさんにも見られますね。

最後、千利休さんは切腹させられてしまうという結末になってしまうのですが。

今度は「お由羅騒動」起こる!

密貿易による財政改革?

斉興さんが藩主になって24年後の42歳頃、祖父・重豪さんが89歳で大往生を遂げると、ようやく藩政を執り行えるようになりました。

斉興さんは薩摩藩家老・調所広郷(ずしょひろさとさんを重用し、重豪おじいちゃんが作った借金500万両のための財政改革へと乗り出します。

しかしその方法は、商人を脅迫して借金を無利子で250年分割払いにしたり、琉球(現・沖縄)を通じての清(現・中国)との秘密裏に行っていた「密貿易」だったのです。

その成果は、500万両あった借金は逆に200万両の貯えが出来るほどまでに財政が回復しました。

しかし、悪いことはバレずに済まされるはずがありません…。

江戸幕府老中・阿部正弘(あべまさひろさん(「西郷どん」では藤木直人さん演)は、調所さんを江戸に呼び薩摩の密貿易について問い詰めたのです。

この責任を斉興さんに取らせ隠居させようと考えた正弘さんと次期当主候補の島津斉彬さんでしたが、調所さんは1人で罪を被り服毒自殺してしまったのでした。

後継ぎ争い「お由羅騒動」!

薩摩藩内では、後継者を巡って争いが起こっていました。

後継者候補は、斉興さんと正室との間に誕生している長男・斉彬さんと、側室・お由羅の方との間に誕生した5男・島津久光(しまづひさみつさんです。

本来であれば長男が家督を継ぐはずなのですが、斉興さんは久光さんを溺愛していたんです。

それは、斉彬さんは聡明ではありましたが、重豪さんに似たところがあり、財政を再び悪化させてしまう恐れがあるかもしれないとされていたからです。

生前から重豪さんは斉彬さんのことを大変可愛がり、2人とも蘭学に興味を持った西洋かぶれ的なところがありましたので。

そんな中、お由羅の方の「呪い」疑惑が浮上します。

なぜなら、久光さんの子らは無事に成長していくのに対し、斉彬さんの子は女子3人だけを残し世継ぎは幼くしてなくなっていたからです。

当時としては、医療の限界により珍しくもなかったのですが、逆に医学の知識が低かった分、「呪い」のせいにしていたところもあったのですね。

こういうこともあり、久光さんやお由羅の方、その重臣らの暗殺を計画したとして、斉彬派のものたち50数名は切腹や蟄居、遠島の刑になったのです。

「お由羅騒動」と言われる語源ですね。

この騒動の結末は、阿部正弘さんの要請で12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよしさんが斉興さんに茶器を下したのです。

この意味は、「隠居して茶をたしなむがよい」という隠居通告なんですね。なんともお洒落な。

斉興さんは42年もの長い間勤めた藩主の座を斉彬さんに譲ったのでした。

斉彬さんを毒殺?

無事に薩摩藩11代藩主になった島津斉彬さんでしたが、阿部正弘さんが亡くなると大老に就いた井伊直弼(いいなおすけさんと「14代将軍継嗣問題」で真っ向から対立しました。

直弼さんが徳川家茂(とくがわいえもちさんを14代将軍に決定すると、反対派を弾圧する「安政の大獄」を開始させます。

斉彬さんは抗議のために兵5000人を率いて上洛を計画している最中、藩主になってわずか7年後に急死してしまったのです。

あまりの急な死と、跡継ぎが皆亡くなっていることから、斉興さんや久光さんの毒殺説が噂されたのでした。

斉興さんは、斉彬さんの幕府との対立姿勢に不満を感じていたみたいです。

久光さんの長男が家督を継ぐと、斉興さんは再び藩政を掌握しだし、西郷隆盛さんら斉彬派を粛清、一時藩政は混乱状態となります。

しかしその翌年、藩内をかき乱すだけ乱して69歳で亡くなったのでした。

まとめ

名君主とされ評価は高いが、かなりの浪費家で財政を圧迫した島津重豪さんとそれに似ていた島津斉彬さん。

重豪さんが使った借金をどうにかしようと倹約に取り組んだ島津斉宣さんと島津斉興さん。

どちらが正しかったのか、考え方が全く両極端の2組ですよね。

しかし、薩摩藩はこの後の幕末、明治に無くてはならない国となっていくため、誰もが正しいやり方をしていたのかもしれませんね。

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