【坂下門外の変】井伊直弼の桜田門外の変と同じような事件がもう一つあった!?

大老・井伊直弼(いいなおすけさんと「桜田門外の変」は超有名ですね。

外国と不平等条約を結んでしまい、各地の浪士が騒ぎ出します。

そして、幕府批判をする者たち100名以上を捕えていった「安政の大獄」。

こういったことが重なり、直弼さんはついに江戸城の桜田門で水戸脱藩浪士17名、薩摩藩士1名の計18名に襲われ亡くなったのです

しかし、そのわずか2年後にも江戸城のある門である老中(ろうじゅうが襲撃される事件が起こっていたのです。

しかも襲撃者は同じ水戸浪士というなにもかもが似たような事件。

ということで今回は、桜田門外の変に乗っかったような事件、その名も「坂下門外の変」について紹介していきます。

もしテストに出たらごちゃごちゃになりそう…。

※歴史上のことなので諸説あります。

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桜田門外の変をまずは簡単に!

桜田門外の変の2年前に、井伊直弼さんは大老に就任しました。
大老とは、将軍補佐役で幕府NO.2ですね。

しかしその時、
・将軍継嗣問題
・日米修好通商条約の不平等条約の問題

この課題に直面していました。

将軍継嗣問題

江戸幕府13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだが病弱で後継ぎが見込めなかったので、「家茂(いえもちさん(のちの14代)vs慶喜(よしのぶさん(のちの15代)」推しで争ったのです。

直弼さんは14代将軍を家茂さんに決めたため、慶喜さん推しの水戸藩から激しく反感を買っていたのですね。

不平等条約の調印

不平等条約の調印にしても、天皇の許可が得ないままでしたし、一橋(ひとつばし派(継嗣問題での慶喜さん推しの面々)は激しく非難しました。

直弼さんvs水戸藩」という構図が出来上がります。

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安政の大獄

直弼さんは、幕府を批判する者たちを弾圧していきます。

これを「安政の大獄」と呼ぶのは有名な話で、粛清されたのは100名以上にも及んでしまったのです。

幕府を守るためとはいえ、火に油を注ぐような行為でしたね。

そして、自らの命をも脅かす事件にも繋がってしまうのです。

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桜田門外の変

井伊直弼さんが大老に就任してから2年後の1860年3月

江戸城桜田門で季節外れの雪が降る中、その事件は起こりました…。

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坂下門外の変が起こった背景

桜田門外の変より約2年後、老中・安藤信正(あんどうのぶまささんが幕府の威厳を取り戻そうとすると、今度は江戸城坂下門で同じ水戸藩の浪士に襲撃される事件が起こりました。

ちなみに「老中」は「大老」の下の役職です。

朝廷と幕府が手を取る「公武合体」

天皇の許可を得ないまま調印してしまった不平等条約によって、分裂してしまった朝廷と幕府の関係を修復するための対応策「公武合体(こうぶがったい」。

公家(朝廷)と武士(幕府)が協力して政治を立て直そうとした策です。

これを単なる名目上で終わらせないために、日本国内へのアピールを兼ねていたのが、江戸幕府14代将軍・徳川家茂と孝明(こうめい天皇の妹・和宮(かずのみやの結婚でした。

しかし、公武合体を推し進めた安藤信正さんは、尊王攘夷(そんのうじょうい派「王を尊い、夷を(はらう」、「天皇を敬い、外敵を追い払う」といった思想を持っていた浪士たちに敵視されていました。

坂下門外の変、決行!

1862年1月15日午前8時頃、桜田門外の変と同じく安藤信正の行列が江戸城に登城するときにその事件は起きます。

坂下門に差し掛かると、医師を含んだ水戸浪士6人が行動を起こす。

1人が、将軍などに直接願い出る行為である「直訴(じきそ」を装い行列の前に飛び出す。桜田門外の変と同じやり方ですね。そういうもんなんでしょうか。

信正さんの乗る駕籠(かごに向けて銃撃
命中はしませんでしたが、これを合図に他5人も行列に切り込んで行きます。

しかし、桜田門外の変以降、登城の際の警備は厳重になっており、今回は6人という前回とは3分の1の人数での実行であったため、目的を果たせず皆、闘死してしまったのです

信正さんも、駕籠に刀を突き刺された時に付けられた背中の傷のみで、一人城内に逃げ込み軽傷で済みました。

計画通りではなかったの!?

元々は、水戸藩と長州藩の盟約に基づき、長州藩も参加する予定であったが、長州藩内で公武合体派が主流を占めるようになり参加が難しくなり、水戸藩のみの実行となった。

後に、宇都宮藩の一派も加わるが、当初12月15日決行予定が12月28日に延期、更に1月15日に延期となり、そうこうしていると計画の一部が露見してしまい宇都宮藩の一派は幕府に捕縛されてしまったのです。

しかし、ここまできたら後には引けない状況になってしまったのでしょう。

安藤信正は老中を解雇?

水戸浪士たちの襲撃は失敗に終わりますが、信正さんの背中に傷を負わせてことにより、「背中の傷は、武士の風上にも置けない!」と非難されてしまいます。

桜田門外の変の時もそうですが、この頃は「襲われた被害者」の方も悪いという風潮がありました。
もの凄い言いがかりですよね。敵味方がはっきりと別れている時代で、被害者が報われないとは酷な気がしますが…。「やられる前にやれ!」という意識なのかな?

桜田門外の変に続く襲撃事件で幕府の権威はさらに失墜していったのです。

信正さんは、その年の4月に老中を辞めさせられ、さらに隠居・謹慎を命じられます。

幕府のために尽くしてきたのに、命まで狙われさらには職を失ってしまったのです。

まとめ

今回は、大老・井伊直弼さん暗殺事件「桜田門外の変」から2年後に起きた、老中・安藤信正さん暗殺未遂事件「坂下門外の変」を紹介しました。

あまりにも似ている今回の2つの事件でしたね。

しかし、わずか2年後という短いスパンで事を起こしてしまい、計画の段階で成功の確証を持っていたのでしょうか。

信正さんの方も警護を増やすという対策しか出来ないものでしょうか。

時代も時代ですからね。

あとは、駕籠になんて乗ってゆっくり向かわず、屋敷から江戸城までのたった数100m、一気に猛ダッシュとか!

大名がみんなそんなことをしていたら日本は平和でしたね。

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