【直江兼続】愛の兜は大人気!その裏に隠された真実は!?

直江兼続(なおえかねつぐさんは覚えづらい名前ですが、知名度も人気もとてもありますね。

大河ドラマの主役になったのが大きいですが、そもそも主役になった事がすごいです。
主君に仕える一家臣でしかないのに。

やはり「愛」の兜のインパクト。これが人気に火が付きましたね。とても印象に残りますし、現代でもかっこいい!

それでは今回は、「愛」の兜の戦国武将・直江兼続さんについて紹介していきます。

それではまいりましょう。

※歴史上の事なので諸説あります。

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直江兼続は、主君・上杉景勝とずっと一緒!


生没1560年-1619年

関ヶ原(せきがはらの戦いは1600年です。

4-6歳頃、上杉謙信(うえすぎけんしんさんの養子・上杉景勝(うえすぎかげかつさんのお世話係となる。そしてそのまま最後までずっとずっとずっと一緒なんです。

20歳頃上杉謙信さんが亡くなったために上杉家で家督争いの戦いが起こります。
景勝さんに家督を継がせるために兼続さんは頑張ります。

22歳頃、(せんと結婚。直江家への婿養子。身分が全く違います。逆玉の輿ってやつだったんです。もともとは「樋口さん」ってお名前。


40歳
頃、関ヶ原の戦いのきっかけをつくった「直江状」徳川家康とくがわいえやすさんに送りつけ怒らせてしまいます。
家康さんが上杉家にいちゃもんをつけてきたので、まあまあの喧嘩腰で送り返してますね。

関ヶ原の戦いで西軍に味方し敗れた上杉家は、もともとの会津120万石から米沢30万石に領地を減らされちゃいました。給料がめっちゃ減らされたみたいな感じです。

因みに万石(まんごくとは…1石で大人1人が1年で食べるお米。いわゆる単位ですね。もっと細かい計算もありますが難しいので「愛」を持って割愛しましょう。

米沢で、民のために新しい城下町づくりを進め、そして60歳で死去します

兼続は「愛」の人物ではなかった⁉︎

実はご存じの人もいる通り、この「愛」はあのLOVEの「愛」じゃないんですね。
武器をたくさん持ち、怒りと暴力で人々をあの世に送る仏様愛染明王(あいぜんみょうおうの「愛」だったんですね。

すごい仏様ですね。それ仏様って言うんですかね?仏様ってもっと温和でニコニコしてませんでしたっけ?

そして兜をしっかりと見ますと、「愛」の他にも「雲」が描かれていますよね。これは仏様は雲に乗って現れるって意味なんですね。「LOVE」は雲に乗ってませんもんね。まあ「LOVE」になったら雲のようにフワフワしちゃいますが…。

兼続さんの、怒りと暴力の仏様のような結構グイグイいっちゃってるお話があります。

①家康さんに送った「直江状」。
結構な嫌味な内容が書かれていたらしいです。関ヶ原の合戦の火種ですからね。天下分け目のような内容なのでしょう。


②兼続さんの家臣が間違いで下人を殺してしまった。
下人とは、身分が低い者。奉公人とか。

そしたら遺族たちは、慰謝料ではなく下人を返せと訴えてきます。なんと無茶な!

兼続さんはその対応に遺族たちをも殺してしまいましたそうきた!!
「閻魔大王」に自ら頼めという意味らしいです。理不尽じゃないっすか…。そーとーうるさかったんですかね…。

兼続さんは、自分より偉い伊達政宗だてまさむねさんと江戸城ですれ違っても挨拶しなかった。

その理由は、「戦場で何度もお目にかかったけど、負けて逃げる後ろ姿しか見た事がなかったから気づかなかったと一蹴。負けん気の凄さ。めっちゃ嫌いだったんですかね?

④これも政宗さんとの話。
政宗さんが大名たちに金銭を見せびらかしている時、兼続さんは扇子を使ってそれを見ました。
「遠慮するな。」と言われても、「こんなものを素手で触れば汚れる!」と投げ返しました。これはもう確実に政宗さんのこと嫌いですね。

もちろん兼続さんのニコニコ仏のような「愛」のある話もございました。

私利私欲に囚われないという「義」を重んじた上杉家。
米沢30万石に減らされた時も、部下誰一人辞めさせなかったと言います。給料減らされても誰もリストラしなかったってことです。

自ら質素な生活をして国の再興に取り組みました。

仏のようなお方です。ニコニコしてる仏なのか、怒ってる仏なのか分かりませんね。

兼続は上杉家をのっとっていた!?

上杉家の家督を継ぐのは上杉景勝さんと上杉景虎うえすぎかげとらさんの2人がいました。

上杉謙信さんは「景虎」にしようと周囲に話していました。

そんな中、兼続さんは謙信さんが脳卒中で倒れる前から「謙信様は長くはないぞ!」と話しています。かなり意味深なお言葉…。

しかも謙信さんが倒れた直後に、兼続さんの身内しかいない部屋で「家督は景勝様に!」とお願いします。

意識のない謙信さんはただうなずいただけ…。それって都合の良いように見えただけ?

謙信さんの死後兼続さんは急激に出世していきます。うーん。

兼続さんを含めて4人いた景勝さんの側近は、殺害されるなどで最後には兼続さん1人となります。うーん。うーん。

京都への上洛の際に、当主景勝さんよりも兼続さんの護衛の数の方が多いという状態までおきてます。

天下人・豊臣秀吉とよとみひでよしさんに気に入られ、主君・景勝さんと同等の扱いをされていたりもしております。「豊臣」の名前ももらってます。気に入られ過ぎです!

妻のお(せんも上杉家をのっとっていた!?

今度は妻にまでも黒い噂が…。

お船には兼続さんの前に直江信綱(なおえのぶつなさんという婿がいました。

しかし家督相続の戦いの際の恩賞をめぐるトラブルで殺害されてしまいます。金銭トラブルってやつですね。

その後、兼続さんと夫婦になりましたが、お船は身分が全く違う兼続さんを婿にするのを嫌がっていました。

しかし当主・景勝さんの命令には背けなかったのです。

実際のところ、景勝さんは信綱さんが上杉家をのっとる恐れがあるとして、殺害の命を下していたらしいのです。

お船はそれに気づいていたのかもしれませんね。

景勝さんには全く跡継ぎが生まれなかったが、お船が紹介した側室・四辻よつつじにやっと念願の会津上杉家二代目が誕生しました。

しかし真実は、その四辻はお船と信綱さんの子だったという噂があります。

そして上杉家はお船の血筋となっていくのです。女性は怖いですね。

景勝さんと兼続さんの死後、上杉家でのお船の影響は大きくなっていったのです。

お船は、「良い国つくろう鎌倉幕府」で有名な源頼朝(みなもとのよりともさんの妻・政子(まさこに似ているとまで言われています。

政子もまた男性をほっといて、鎌倉幕府の実権を握っていた女性ですね。草食系男子と肉食系女子は昔からあったのですね。

「兼続」のもしこうなっていたら!?

①「直江状」で家康さんを怒らせていなかったら?

家康さんは天下を取りたくてウズウズウズウズしてました。
ホトトギスの句にもあるように「鳴くまで待とう」のお方です。

そしてついに天下人・豊臣秀吉さんが亡くなります。ホトトギスが鳴いたんですね!

チャンスとばかりに上杉家にいちゃもんつけて、上杉家をけしかけ、争いにもっていきます。
それに便乗した秀吉さんの1番の家臣・石田三成さんが出陣!

これを家康さんは待っていたんですね。ホトトギス鳴きまくりですね。

そういうことで、「直江状」は戦いのためのただの1つの理由だったと思います。

家康さん的にも本当は怒ってはいなく、「キターー!!ここやーー!」って感じだったのではないでしょうか。

②関ヶ原の戦いで上杉家が勝っていたら?

豊臣家の天下が続き、徳川家が衰退。「義」に熱い上杉家は天下は狙わず、金持ちの大名のままっていったところでしょうか。

そのまま首都が大阪、関西弁が標準語、笑いには「オチ」が付けられ、どのおばちゃんの鞄にも飴が入っている感じですかね。草食系男子も誕生していないのかな。

当時よりも現代に影響大ではないですか!

まとめ

「愛」の兜の本当の意味は怒りと暴力の仏様、「愛染明王」の一文字それに付随する兼続さんの負けん気のある行動の数々。

そして、「義」を重んじるはずの上杉家の裏の噂。



「愛」の兜の文字の意味と、本当の戦国武将・直江兼続さんのギャップを知れたのではないでしょうか?

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