【謎が解明?】本能寺の変の四国説!明智光秀の動機はここにあった!

織田信長(おだのぶながさんは天下統一目前で家臣・明智光秀(あけちみつひでさんの謀反に合い自害してしまいました。

「本能寺の変」ですね。

光秀さんはなぜに謀反を起こしたのか動機がはっきりしておらず、現在でも謎のままとなっています。

そして謎であるからこそ、数多くの説が存在しているのです。

天下を目指した「野望説」。これはまさに戦国時代といった感じであります。

日頃の怨みが爆発した「怨恨説」。これには諸説ありますが、信長さんは光秀さんに対する理不尽な行動が結構激しかったようなんです。

そして、光秀さんには黒幕が存在していたという「黒幕説」です。

朝廷や徳川家康(とくがわいえやすさん、そして後の天下人となる豊臣秀吉(とよとみひでよしさんなどの名前が上がりますね。

多くの説が飛び交う中、今回は「四国説」について紹介したいと思います。

2014年に岡山県の美術館と博物館にて当時の「ある書状」が公表され世間を騒がせました。

その書状とは、本能寺の変の5ヶ月前に光秀さんの重臣と四国を治めていた武将とのやり取りの手紙です。

この発見により、「四国説」の真実度が浮上してきんですね。

それでは、本能寺の変「四国説」、まいりましょう。

※歴史上のことなので諸説あります。

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織田信長家臣らの「本能寺の変」以前の行動!

羽柴(豊臣)秀吉

「本能寺の変」より5年前の1577年から、毛利氏の勢力圏である中国地方の征伐を任されていました。

「中国征伐」も最後の追い込みである毛利軍との対峙の時、秀吉さんは信長さんに援軍を要請、先に明智光秀さんの軍を向かわせますが、その道中で「本能寺の変」が起こったのですね。

秀吉さんは中国征伐未完のまま、京へと戻ることとなりました。

柴田勝家(しばたかついえ

北陸方面の軍司令官に任命され、戦国武将・上杉謙信(うえすぎけんしんさんと争う事となります。

織田家の筆頭家老の地位にいるお方です。

「本能寺の変」が起こった時も、上杉と戦闘中であり知らせが届くのが送れ、秀吉軍に先に光秀さんを討たれるという大失態を犯し、秀吉さんにその地位を脅かされるようになってしまうのです。

滝川一益(たきがわかずます

織田鉄砲隊vs武田騎馬隊で有名な長篠(ながしのの戦い」で、鉄砲隊の総指揮を執ったお方。

さらには、武田家を滅亡させた「甲州征伐」で信長さんの嫡男・織田信忠(おだのぶたださんの補佐役として、武田軍大将・武田勝頼(たけだかつよりさんの首を取るという功績を挙げています。

一番手柄を挙げたとして、上野国(こうずけのくに(現・栃木)と信濃国(現・長野)を与えられ、関東の取次役を命じられました。

神戸信孝、丹羽長秀

神戸信孝(かんべのぶたかさんは信長さんの3男で、神戸家の養子となり家督を継ぎました。

滝川一益さんらと共に織田家の遊撃軍団として各地に転戦するようになります。

丹羽長秀(にわながひでさんは、柴田勝家さんに続く2番家老の座を与えられたお方、「織田家の双璧」と呼ばれています。

そして今回の話の主題ともなっていますが、四国の長宗我部(ちょうそかべ氏との交渉が決裂してしまい、信長さんは「四国征伐」を決意、大将を信孝さんに、副将を長秀さんに命じたのです。

長宗我部氏との取次役を任されていたのが、明智光秀さんだったんですね。

明智光秀と「四国説」!

織田信長と長宗我部は良い関係?

土佐国(現・高知)統一を果たした長宗我部元親(もとちかさんは、信長さんと良い関係を築き所領を安堵されていました。

信長さんも「四国は勝手にしていいぞ!」という感じだったのです。

そう言われれば、元親さんも四国の残り3国にまで勢力を伸ばそうとしますよね。

阿波国(現・徳島)、讃岐国(現・香川)を治めていた三好氏は信長さんと敵対していましたが、三好康長(みよしやすながさんは信長さんに敗れると名物「三日月の葉茶壷(はちゃつぼを献上、一転して家臣として厚遇されるようになります。

康長さんは秀吉さんにも接近しており、秀吉さんの姉の子(のちの豊臣秀次(とよとみひでつぐさん)を養子に貰い受けていました。

領土を元親さんに奪われると、信長さんにこれを訴え、織田家の方針を撤回させるようにしむけます。

信長さんは「四国は好きにしていい!」と元親さんに伝えていましたが、「やはり土佐国と阿波の半国のみで、他の領土は返せ!」と考えを変えてきたのです。

これには元親さんも激怒、不服とし要求を拒絶します。

そして信長さんは、3男・神戸信孝さんを大将とし、「四国征伐」を命じたのです。

明智光秀さんと長宗我部の関係は?

光秀さんの家臣に石谷頼辰(いしがいよりときさんと斎藤利三(さいとうとしみつさんという兄弟がいます。

弟・利三さんは光秀さんの重臣で、本能寺の変にも参加、直後の「山崎の戦い」で光秀さんと共に亡くなってしまいます。

徳川3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつさんの乳母の春日局(かすがのつぼねさんのお父さんです。

兄・頼辰さんは、室町幕府で将軍直属の軍事職である「奉公衆(ほうこうしゅう」の石谷光政(いしがいみつまささんの元へ婿養子として迎えられていました。光政さんはこの兄弟の母との再婚相手でもあります。

さらに光政さんのもう一人の娘が、長宗我部元親さんの正室となります。頼辰さん兄弟と元親さんは義兄弟という関係ですね。

のちに室町幕府が無くなると、光政さんは元親さんの家臣へ、頼辰さんは光秀さんの家臣となるのです。

ということで、織田信長さんと長宗我部元親さんの「四国所領問題」の取次役として明智光秀さんが受け持ち、実際に行動していたのは頼辰、利三兄弟とその養父・光政さんという事です。

発見された「書状」の内容とは?

1582年1月、本能寺の変より5ヶ月前に斎藤利三さんが石谷光政さんへ宛てた書状。

「兄・頼辰をそちらに派遣する、元親殿の説得をお願いしたい。」という内容。

この頃の、信長さんと元親さんの対立が分かるものです。

1582年5月、本能寺の変の前の月、長宗我部元親さんから斎藤利三さんへ宛てた書状。

1月の時点では信長さんの命令を拒否していた元親さんでしたが、今回の書状では、

「土佐国の入口に当たる領土はこのまま所持したいが、あとは信長様の命に従う。」といった内容でした。

この書状に信長さんは目を通したのかは分かりませんが、元親さんが命令に従う姿勢を見せていたにも関わらず神戸信孝さんを四国征伐へと送り出そうとしていたのです。

これには取次役であった光秀さんの面目が潰されたとうことで、本能寺の変を起こした動機ではないかと「四国説」が再浮上してきたのですね。

まとめ

この書状が発見された事により、明智光秀さんが本能寺の変を起こした動機が今回の「四国説」にあったのではないかと言われております。

長い間、取次役として交渉を重ねてきたのに、最後には武力行使に路線変更、しかもその大将を別の者に任すという面目が潰される行為をされた事による「怨恨説」とされていました。

しかし、今回発見された「書状」の内容からも、長宗我部は家臣の近親関係でもあったゆえ、滅ぼそうとした信長さんからそれを守ったのではないかという見方なんです。

この説が真実なのであれば、間違いなく明智光秀さんは「戦国のヒーロー」ではないでしょうか。

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