【本能寺の変】その後の家臣たちの行動が気になる!?

1582年、天下統一間近とみられていた織田信長(おだのぶながさんは、家臣・明智光秀(あけちみつひでさんに謀反を起こされ、本能寺で自害したのはとてもとても有名ですよね。

本能寺の変」を起こした動機に数々の議論がなされ、未だ謎とされております。

今回は、その謎の解明はちょっと横に置いておいて、信長さんの家臣たちはどのような行動に出たのか紹介していきます。

本能寺の変を起こしたのは信長さんの家臣である光秀さん。

他にも信長さんには家臣がたくさんいました。のちに天下統一を果たす豊臣秀吉(とよとみひでよしさんなどなど。

家臣たちは、本能寺の変の悲報をどこで聞いて、その後どういう行動に出たのでしょうか。

「信長様の仇討ちだー!」だったのか、

「次の天下は俺だー!」であったのか、

ちょっと気になりますよね。

それではまいりましょう。

※歴史上のことなので諸説あります。

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本能寺の変、起こる!

1582年6月、天下目前であった織田信長さんが家臣・明智光秀さんの謀反によって「本能寺」で自害しました。

信長さんに家督を譲られていた嫡男・織田信忠(おだのぶたださんもこの時に自害しています。

全国に散らばっていた信長さん家臣たちはその悲報を聞き、「光秀討つべし!」と京へ戻って来るのです。

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織田信長の家臣たちの動向!

後の天下人・豊臣秀吉

羽柴秀吉(はしばひでよし(豊臣秀吉)さんは、中国攻めをしており、悲報を聞くとすぐさま200㎞の距離を約10日間で駆け抜けます。「中国大返し」です。

そして、一番に光秀さんと対峙し、「山崎の戦い」で勝利するのです。秀吉さんこの時既に45歳なんです。

光秀さんは信長さんを討ちますが、その13日後には秀吉さんに敗れてしまったため、俗に言う「三日天下」と呼ばれています。結構サバを読んでいますが。

その約2週間後には清洲城(きよすじょうで、後継者や領土分配の会議が開かれます。三谷幸喜さんの映画にもあります「清須会議」ですね。

この頃から、信長さんの重臣でもあります柴田勝家(しばたかついえさんとの対立が起こり始めるのです。

そして、本能寺の変から約1年後賤ヶ岳(しずがたけの戦い」で、柴田勝家さんを自害、信長さんの3男・織田信孝(おだのぶたかさんも自害、信長さん家臣・滝川一益(たきがわかずますさんを降伏に追い込み、織田家家臣TOPの地位となりました。

この頃に、豪華絢爛な「大阪城」を築きますね。

そしてさらに1年後「小牧・長久手(ながくての戦い」で信長さんの次男・織田信雄(おだのぶかつさんと徳川家康(とくがわいえやすさんの織田・徳川連合軍に勝利し、織田政権から豊臣政権へと変わっていったのです。

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信長の父の代からの家臣・柴田勝家

柴田勝家さんは、信長さんの父・織田信秀(おだのぶひでさんの頃から織田家の家臣として仕えています。

そしてなんと、信長さんの弟・織田信行(おだのぶゆきさんを織田家の後継者とするため、信長さんとも戦っているのです。

後にその罪は許され、信長さんの家臣となりました。まさに「昨日の敵は今日の友」状態なんです。

勝家さんは、織田家の筆頭家老の地位までになりますが、本能寺の変の悲報を聞いたとき、越中国(えっちゅうのくに魚津城(うおづじょう(現・富山県)で上杉氏と戦っていました。

すぐさま光秀さん討伐の準備をするべく自身の城である北ノ庄城(きたのしょうじょう(福井県)に戻りますが、時既に遅し秀吉さんが光秀さんを「山崎の戦い」で討った後でした。

清洲会議では、先に光秀さんを討伐した秀吉さんに発言権があり、さらには領土分配でも抜かされ、立場が逆転してしまったのです。

そして、1年後の「賤ヶ岳の戦い」で秀吉さんに敗れ自身の城で自害したのです。享年62歳でした。

 織田家の双璧・丹羽長秀

16歳の頃から信長さんに仕え、数々の戦いに参加し武功を挙げ、織田家臣で最初の国持大名になっています。

柴田勝家さんに続く二番家老の地位となり、「織田家の双璧」と言われます。

信長さん3男・織田信孝さんと丹羽長秀(にわながひでさんは四国平定の任務で、京からもっとも近い大阪にいましたが、軍と別行動をとっているときに本能寺の変の知らせが届き、大将不在で命令が徹底出来ず兵士たちは四散してしまいます。

止むを得ず、中国からの秀吉軍を待つ形となりました

「山崎の戦い」、「清洲会議」、「賤ヶ岳の戦い」でも秀吉さんを補佐し、123万石の大々名となります。

本能寺の変から3年後、病気のため51歳で亡くなりました。

織田四天王・滝川一益も、変後は転落へ

滝川一益さんの信長さんに仕えるまでの半生は不明ですが、父が甲賀出身ということもあり忍者だったのではというワクワクする話もあります。

鉄砲の腕を見込まれて信長さんに仕えたとされ、武田騎馬隊と信長軍の鉄砲隊で有名な長篠(ながしのの戦い」では鉄砲隊の総指揮を執ります。

信長さんからの信頼も厚く、異例のスピードで出世していく様は、百姓から出世していく秀吉さんと似た感じではないでしょうか。

しかし、本能寺の変で信長さんが亡くなると、秀吉さんとは真逆の人生を辿ることになります。

京より遠い関東平定を任されていた一益さんは、信長さんの死を知らされたのも5日後、もちろん「山崎の戦い」にも参加できず、さらには織田家後継者を決める「清洲会議」にも間に合わなかったのです。

「賤ヶ岳の戦い」では柴田勝家さん側に味方し敗北

「小牧・長久手の戦い」では秀吉さん側となりますが、徳川家康さんに攻められ伊勢に逃げてしまいます。

そして、本能寺の変より4年後62歳で亡くなります。

天下人・秀吉さんと似たような立場ですが、こんなにも人生は変わってしまうものなのですね。

信長と同盟を組んでいた、徳川家康

1560年桶狭間(おけはざまの戦い」織田信長さんが今川義元(いまがわよしもとさんを破ります。

今川氏に属していた家康さんは、城下のお寺で切腹を図ろうとしますが住職に「泰平の世を築くべき生きよ!」と諭されたと言います。

そしてその2年後に、信長さんとの同盟を締結しました。

同盟から20年後駿河(するが(現・静岡県)の拝領のお礼のために安土城(あづちじょうへ信長さんに面会、信長さんの勧めで京都や大阪を遊覧中に本能寺の変の悲報を聞きます。

このときの家康さんのお供は、小姓衆など少人数でかなり危険な状況でした。
家康さんは信長さんの後を追おうとまで考えたのです。
こういう行動をみると、家康さんがどういう性格だったのかが分かってきますね。

そして、僅か34名で伊賀国を経由し、自国三河国(みかわのくに(現・愛知県)へ帰還したのです。「神君伊賀越え」です。忍者で有名、服部半蔵(はっとりはんぞうさんが道案内をしたとか。

家康さん本人や徳川四天王と呼ばれる重鎮たちもいたため、もし光秀さんの配下などに襲われていたら、徳川家にとって一大事でした

帰還した後、軍勢を集め、光秀さん討伐に出ますがすでに秀吉さんに討たれた後でした。

その後、「小牧・長久手の戦い」で秀吉さんと戦いますが、のちに和睦、家康さんの次男を秀吉さんの養子にしたり、秀吉さんの妹を家康さんの妻に迎えたりと、そして家康さんは秀吉さんに臣従することを決めます。この時43歳です。

そして10数年、家康さんはホトトギスが鳴くのを待っていたのですね。

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まとめ

今回は、歴史の転機とも言える「本能寺の変」が起こったことによって、その周りがどのような行動に出たのかについて紹介してみました。

とても有名な出来事だからこそ、見落としがちな部分でもあり、成功するするものは行動がとてつもなく速いのだなと思わざるを得ないですよね。

天下人に、なるべくしてなったって感じですかね。

もう一つ思ったことは、みなさん結構なお歳でしたね。

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